おかゆ 米の甘みとうまみがふんわりと(1/31)
◇好みが異なる関東と関西
おかゆと言えば、あつあつの上に赤紫の梅干しをのせて、梅干しの酸っぱさしょっぱさと一緒に口に運ぶものと思っていたら、今や街中には「中華粥(がゆ)」のチェーン店も目立ち、さまざまなおかゆが登場している。【本橋由紀】
東京・銀座4丁目の交差点から歩いて5分ほど、全国農業協同組合中央会(JA全中)が運営している「お米ギャラリー銀座」の店頭には、「五穀米」「玄米かぼちゃ」「とりがら」など8種のレトルトがゆが並んでいる。客の8割が若い女性で、今年の七草がゆには800個売れたという。
おかゆには缶詰もある。秋田県山本町の「こまち食品工業」が87年に売り出した「こまちがゆ」。米が過剰だった当時、消費拡大のためにとあきたこまちと天然水でおかゆを作って缶詰にすることを思いついた、と高橋隆社長(70)。95年の阪神大震災以降は防災用としてもニーズが増え、全国の倉庫に備蓄されている。「高齢者はもちろん、消化がいいのでダイエットや今の時期は大学受験生の夜食にも利用されています」と言う。
●薬膳の効能
便利でお手軽なおかゆもいいが、料亭にもおかゆはある。
江戸時代後期の天保8(1837)年にのれんをかかげた京都の懐石料亭「瓢亭(ひょうてい)」では、7〜8月の2カ月間、朝8時から10時まで品書きに「朝がゆ」が載る。お店の名物として知られ、70年の大阪万博の時は毎朝約200人が訪れ、今も祇園祭や大文字焼きの時期には毎日100人前後でにぎわう。
京都らしい逸話が残る。14代目当主、〓橋英一さんは「昔、京都のお旦那(だんな)衆が祇園の町で遊んだ帰りに、芸者さんと連れ立ってまだ閉まっている雨戸をたたいたそうです。お得意さんをお断りするわけにはいかず、おいしいおだしの葛(くず)あんをかけた朝がゆをお出ししたところ、口伝えで評判になり、明治初年から、朝がゆの看板をあげました。わがままなお客さんがあったさかいにできました」と話す。もちろん炊き立てを供する。炊いて10分もすると団子状になるからだという。
おかゆはいつごろから食べられていたのだろうか。北京中医薬大学日本校薬膳(やくぜん)講師の岡本清孝さん(70)は「米文化の先輩である中国では記録が残っているだけでも2000年ほど前に書かれた『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』『黄帝内経(こうていだいけい)』などに記され、6000〜7000年前から食べられていたという説もある」と語る。「老衰を防止し、疾病を治す」「薬を飲んだ後にかゆを食べる」といったことが史料や古代の医学書に見られるという。
その効能は薬膳の観点だが、米は精力がついてエネルギーが蓄えられる食材で、味で言えば「甘(かん)」。栄養補給の力があり、しびれをとったり、痛みをやわらげる。体を温めたり、冷やしたりする食品ではなく、たくさん食べても大きな影響のない穏やかな食品に分類される。これをおかゆにすると体に素直に浸透し、消化する。白いおかゆをベースにゴマや小豆、野菜など、体調に応じた食材を加えると薬膳の効果はアップする。
「朝食がご飯とおかゆではおかゆの方が目覚めが早いという実験結果を見たこともある」と岡本さん。米が崩れるまでふたをあけて炊く「中国粥」は南方系で、大陸の多くでは米のパワー=「氣」を逃さないために、密閉した鍋でおかゆを炊くそうだ。
●強飯と姫飯
日本ではどうか。
「米の文化史」(社会思想社)などによると、古代日本では米は蒸して食べられていたが、平安時代に陶器が用いられ、米を煮るようになった。蒸して硬い「強飯(こわめし)」に対して煮飯は「姫飯(ひめいい)」(略して「ひめ」)と呼ばれ、これがおかゆに当たる。貴族や僧侶は朝食をおかゆにする習俗を持ち、一般化したという。ただ、平安中期に書かれた「源氏物語」ではおかゆをさして「湯」と呼んでいるが、院政時代の讃岐典侍日記(さぬきのすけのにっき)(1107年)では「粥」の言葉が使われている。さらに室町時代以後、水分の少ない硬めのかゆを「飯(いい)」「ひめ」と呼び、おかゆと呼ぶのは汁がゆをさすようになった。
「かゆ」の語源にはさまざまあり、炊湯(かしぎゆ)、濃湯(こゆ)、食湯(けゆ)、加湯(かゆ)、形緩(かたゆる)などから転じたという。また、かつては地域によって「カイ」(岩手、千葉、大阪、愛媛、鹿児島など)「カエ」(千葉、福井、熊本など)「キャ」(青森、熊本)などと発音された。
●関西では倹約の象徴
おかゆというと病人食というイメージが強いが、関西では日常食として食べてきた歴史がある。前出の「米の文化史」には、「明治末から大正中ごろまでは京都の町家では必ず朝粥だった」とある。また奈良県農政課によると、熱い茶がゆは胃を荒らすとして、1954年に茶がゆを食べないように呼びかけが行われたこともあるという。
その違いについて食通でもある作家の嵐山光三郎さんは著書「ごはん通」(平凡社)の中で、「江戸時代に入ると、粥は関東で病人や妊婦の食用となり、関西では倹約の象徴となった」と書いている。さらに、「飲食事典」(同)から「関東人は粥を好まず、京阪人が毎朝の常食にするのを吝嗇(りんしょく)として笑った。(中略)聖武天皇が南都の大仏殿を建立された時、大和の民は粥をすすって米を食い延ばし、造営のお手伝いをしたのが奈良茶の起源だといい、豊臣秀吉は微賤(びせん)の昔を忘れず死ぬまで割粥を好んだともいわれる」と引用する。
おかゆをメーンのメニューにしている「かゆや」(東京都国立市)を訪ねた。小林恵美子店長(36)は「健康な時に食べるおかゆの店を作りたいと、母が18年前に始めました」と話す。白がゆをベースに、だしと卵や野菜、肉などを入れたおかゆを出している。単身赴任の男性、大学生、赤ちゃん連れの主婦などがやってくる。
新潟のコシヒカリを使っているという白がゆは、米の甘みとうまみがふんわり生きていた。疲れて癒やしを求めている胃と心には、確かに効きそうだ。(毎日新聞)
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